謹んで新年のお慶びを申し上げます
肉体的 精神的 そして社会的に全てが満たされた状態へ
皆様のウェルビーイングが一層深まる一年となりますことを心よりお祈り申し上げます
昨年末に、佐原徹哉氏の大著『極右インターナショナリズムの時代』(有志社)を読了しました。
主に欧米で起きているヘイトクライムによるテロの背景、一部のイスラム思想の過激化と「カウンター・ジハード主義」、欧州における難民の人種主義的な扱いなど、近年の国際的な事件がそれぞれどう作用しているのか、日本国内の報道を見ても分からない関連性への理解につながる良書でした。
著者は現在の世界について、①最上層にあるグローバル・エリート層、②生まれた国の運命に委ねるしかない流動性の低い層、③生まれた国の状況が悪すぎるために難民として権利の大半を奪われる層の三層システムが、あと一世代もすれば制度として定着すると予言し、このシステムは歴史的に見て、普遍的人権と国民国家を特徴とする近代(モダニティ)の終焉と捉えられることを指摘しています。
日本としても他人事ではなく、そのような傾向を正当化する風潮が年々強まっているように感じられます。
もっとも、西洋を起源とする近代的価値観が世界的に限界に達していることは、日本の数少ない真の保守思想家である佐伯啓思氏が『近代の虚妄』をはじめとする複数の著書で、すでに指摘しており、驚くべきことではありません。
佐伯氏は、近代的価値観の様々な矛盾はニヒリズムに至り、ニヒリズムを超越するための方策として日本思想の柱である「無の思想」を提案しています。
一方、佐原氏はより現実的な視点から、今後極右勢力が国際的な連携を強め、国家の領土内で経済資源を集中させたとしても、国家的枠組みの外に蓄積された資本に対抗することはできず、新たなファシスト国家の支配者たちもグローバル・エリートに養ってもらうしかないと悲観的です。
資本主義のシステムをとる国である以上、グローバル化を避けることは不可能です。
問題は、世界的に貧富の格差が拡大し、世代を越えて固定化していることにあります。
こうした状況を打破するためには、資本主義の修正が必要です。
そのことを「ポスト資本主義」として提唱するのが広井良典氏で、私自身もその考え方に共感しております。
その上で私は、経済成長は目的ではなく結果であるべきという原則のもと、量の経済成長から質の経済成長へと国の目標を転換すべく『日本列島修復論』を発表した経緯があります。
しかし日本の政治情勢を見る限り、どう楽観視しても資本主義を修正するどころか、より破滅的な方向へと推進する力ばかりが働いているようです。
それでも、決して悲観はしていません。
ごく一部のグローバル・エリートがどれほど巨万の富を集めたところで、決してゆるがせられない使命感を身につけることは誰でも可能であるし、そうした人が政治のリーダーとなれば、国民の資産や安定した生活を守ることは可能であることを確信しています。
では、決してゆるがせられない使命感とは、どのようにして身につけられるというのでしょうか。
その方策は、古典に学び、実践することでしかありません。
富について、次の格言はその一般的な概念を一瞬でひっくり返します。
「死生、命あり。富貴、天にあり」(『論語』顔淵第十二)
孔子の弟子である子夏が、孔子から聞いた言葉として、人の生き死にはこの世であらがえないものであり、富と貴さもまた天からの預かりものでしかないと言っています。
「命」(めい)について孔子はたくさんの言葉を残しています。
そのどれもが非常に味わい深い言葉で、決して押し付けがましいものではないものの、常に生き方の指針を示してくれる内容です。
「子、まれに利を言う。命とともにし、仁とともにす」(『論語』子罕第九)
「利」とは利益のことで、それそのものは否定すべきではありません。
経済的な自立がなければ、どんな高尚な理想を説いても絵空事でしかない。
孔子は、道を踏み外してまで利益を追うべきではなく、それ以上に大事なものがあると説いています。
グローバル・エリートがどれだけ多くの利益を集め、世界を支配したかのように振舞ったとしても、「命」と「仁」に基づかないものを天が認めるはずがありません。
持てる資産が大きくなればなるほど、常人には想像もできないほどの不安に心を支配されることもあるでしょう。
それでは、天と人との関係はどうあるべきでしょうか。
「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」(『中庸』第四段第一小段)
「誠」は天の定め、この世で行われるべき道であり、「誠」を実践することこそ人の道と言えるのです。
グローバル・リーダーであるか、ただの人であるかを問わず、それぞれの立場から「誠」の道を歩むことが、天に通じるとされます。
そして「誠」の道は、決してゆるがせられない使命感に重なります。
しかし天は、その「誠」たるものを言葉で示すことはありません。
「子曰く、天、何をか言わんや、四時行われ、百物生ず。天、何をか言わんやと」(『論語』陽貨第十七)
天は何を言うだろうか、何も言わない。
何も言わなくとも四季は移ろい、動物や植物は生まれてくる。
この壮大な働きこそが「天」であるなら、「天」からもたらされる「命」ももちろん言葉に表せるものではないのです。
グローバル・リーダーと、彼らに養われる政治的リーダーたちが道を踏み外し、世が乱れたとしても、何も慌てることはありません。
人類は、そういう時代を幾度と繰り返し、その歴史を刻んできたのです。
「子曰く、道のまさに行われんとするや命なり。道のまさに廃れんとするや命なり」(『論語』憲問第十四)
先進国といわれる国々のリーダーが、万民の保全ではなくおのれの人気取りに走る現代は「道のまさに廃れんとする」時代にほかなりません。
そういう時代であっても、せめて自分独りだけ誠の道を実践できれば、それは天に通じるということです。
『論語』は、君子たる要件に「命」を知ることがあることを念押ししています。
「子曰く、命を知らざれば、もって君子たることなきなり」(『論語』堯曰第二十)
君子ではない、小人に権力を握らせることは、とても恐ろしいことです。
たとえば、こういう格言があります。
「子夏曰く、小人の過ちや、必ずかざる」(『論語』子張第十九)
過ちは誰にでもあることですが、小人が過ちをおかした場合、いろいろ飾って言い訳、弁解をするものです。
選挙で選ばれた、いわゆる政治的リーダーたちの中には、決して子供に知らせたくないような言動をとっている者が少なからず存在します。
または善良そうな仮面をかぶり、違法・脱法の金集めに走る者、権力の座にしがみつくことが目的化している者もおります。
こうした者が権力を振るうことは国と社会にとってマイナスであり、そのような国と社会は必ず衰退へと向かっていきます。
残念ながら、教育における古典の軽視が続いたことで、子供に示すべき手本とはどういう言葉や行動であるのか、分からない大人が増えてしまったのでしょう。
いくらデジタル端末を使いこなし、プログラミングを覚えても、儲けることを目的とする教育では本当に必要な人材は育ちません。
君子を育てるべきです。
こう言うと、頭が固いとか、古臭い考えだとか言われそうですが、決してそうではありません。
むしろ君子として生きることで、自らの感情を適切にコントロールし、自分も周囲も幸せになる、ウェルビーイングの高い人生を送ることができると言えます。
「子曰く、君子はたいらかに蕩蕩たり。小人はとこしえに戚戚たり」(『論語』述而第七)
君子は常に心が穏やかで、のびのびしています。
一方、小人はいつもせこせこ、びくびくしています。
人間社会が君子で満ちれば、争いや格差、ひいては環境問題まで、解決させることができるのではないでしょうか。
「天」が私たち人に求める「命」というものは、まさに君子としての生き方であります。
制度としての教育を見直すという大目標を掲げながら、自分自身の言葉や行動、心の持ちようを常に省みつつ、日々を過ごしていきたいと思います。
私は今年、50歳となります。
50歳は「知命」といわれますが、これも孔子が残した言葉に由来します。
「子曰く、われ十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る」(『論語』学而第一)
年頭に当たり、天命について考えてみました。
今年も皆様にとって幸多き一年となりますように。
令和8年丙午歳 元日
名取市議会議員
吉田 良
昨年12月に購入した渋沢栄一『論語講義』(明徳出版社)を今年は熟読したいと思います。




